『A THIEF IN THE NIGHT』 (1972 米) ・この映画について  アイオワ州で撮影されたキリスト教の布教映画。低予算の小品だが評判となり、あと3本の続編(計4本)が作られ、当時の米国各地の教会や公民館、小中学校などで、よく上映されたようだ。現在はパブリックドメインにあるので、ネットで誰でも自由にダウンロードして見ることが出来る。  アイオワはヤンキーの州(ニューイングランド各州)ではないのだけれども、日本人からするといかにも“白人ヤンキー”という感じの、現在の普通の欧米映像作品だと悪役か端役に回されるタイプの人達ばかりが主な役で出演している(要は出演者がユダヤ系ではないわけ。キリスト教の布教映画だもんね)。当時のアイオワには黒人やヒスパニック系もあまり居ないようで、通行人にも映っていない。余談だが、当時の米国人は皆、痩せているなぁ、今は物凄くアレだけど ・あらすじ(ネタバレ)  アメリカ中部・アイオワ州の学生3人娘が“十代の少年少女会館”でキリスト教の布教スピーチを聞くが、神についての意見はバラバラである。娘達の内2人はそれぞれカーニバルで知り合った男と結婚し、もう一人はスピーチを聞いて興味を持ち、会館の教師の話しを聞いて神を信じるようになる。結婚した娘の一人がある朝目覚めると、夫も、周囲のほとんどの人も消えている。神(ゴッド)を心から信じていた人以外が、地上に残されたのである。街にひと気がなくなるほどアメリカの相当数の人が消えたらしく、戒厳政府は“団結センター”という組織を作り、全市民に身体の何処かに「666」を意味する刺青を入れて“団結センター”の一員になる事を推奨し始める。しばらくすると、666のマークがない人には何も売ってもらえなくなり、政府は“団結センター”に入らない人を強制収用するようになる。逃げ出した娘が、結婚した別の娘に助けを求めるが、彼女達カップルも既に刺青を入れた“団結センター”の一員で・・・ ・私の感想(または妄想)  この映画は「終末は近い、ゴッドを信じなさい」というやつであるが、キリスト教徒ではない私から見て納得しかねる部分がある。 その1  心から神を信じていなかった(??)にせよ、熱心に活動して教会に尽くす真面目で人の良い聖職者が地上に残され、反対に、スピーチや教師の話しで単純に神を信じ、きのう今日、信者に転向しただけの娘の一人の方が救済される。救われなかった娘二人も、悪事はせず善良に暮らす一市民である。コブラに咬まれた男も、神を信じていただけで助かる。  つまり、何でもいいから“本気で心から神を信じたらそれでいい”のか?ゴッドって。これ、相当に怖い考えで、過去に捕まったアメリカの殺人鬼の何人かが「神を信じている私の殺人は全て神の御心である」と語ったそうだが、それと同じことだよね?  正しい行いをするとか、人を騙さないとか、暴力を振るわないとか、人のために尽くすとか、そんなことじゃない。ただ、神を心から信じていれば(何をしても)良いという・・・ その2  ずばり“選民思想”。まあ、この映画はキリスト教に勧誘したり信者を惹きつけておくために意図的にそう作ってあるのだが、言ってる事は「神に選ばれたワレワレと、選ばれないお前達」である。この“選民思想”と上記“その1”の考えが合わさると「市民が暮らすといっても異教徒の東洋人の街だから原爆を落としてもノープロブレム」という米国の発想になるわけで(え、古いって? いいえ今もその考えは続いていますよ)、    私は神を本気で信じている → 神に選ばれている                    ↓              神に選ばれた私のすることは神のご意思!                              │    お前らは神を信じていない → 神の怒りを買っている  │                    ↓         ↓                   お前らは神に選ばれた私が制裁する    └──────────────┬──────────────┘                  なので                   ↓    神に選ばれたワレワレがお前らを、大量破壊兵器で大殺戮しても                    謀略で悪者に仕立てあげても                    嘘の告発で延々と搾取しても                    国家を乗っ取って潰しても・・・                     それは全知全能の神のご意思!  私は全然何教の信者でもない(家は普通に伝統的な仏教徒です)が、こーしてみると、中東起源の宗教はユダヤ・キリスト・イスラムとも“選民思想”と、それから生じる“神に選ばれた私は何をしても良い”という2つが、彼らのあらゆる争いと混乱と犯罪を生み出す元になっているんじゃないかなぁ? 食べてはいけない動物と、食べてよい動物と、それを食べる動物 = 万物の霊長人間を、神が決めたって考え出したところから、もう“選民”がスタートしているわけで、根本から道を間違えているというか。世界的な大宗教なのに、そこが“自分達だけ”で、カルトなんだよね。日ごろの行いじゃない、神を本気で信じるかどうか、聖典に書いてあるとおりを守っているかどうか、だけが重要なんだから。  仏教だと、食べてイイ動物なんか無くて、ダメだけれども食べなきゃ死んじゃうから、そこで菜食主義になるか、大罪を犯して最低食べる分殺生するけれども、それはやっぱり酷い事で、悔い改めて祈って、それでも“全員が地獄に行く”わけで。いつか悟れば誰でも天国に行けるけれども、普通に輪廻転生して生まれ変わったらどんな生き物になるかも分からない。だから、異教徒だろうが異民族だろうが誰に対しても、いや、あらゆる生き物に対して悪い事・酷い事・惨い事をしないようにしましょうという。考え方がとても平等というか。当然に、道徳的に良い行いを続ければ悟りに近づき、皆の助けになる上に、天国は近いわけだし  仏教徒が正しいと言っているのではなくて、どの宗教の教徒にも善人も悪人も居るけれども、宗教の教義自体に自分達だけが選ばれた(選ばれる)という“選民思想”があるのは、極めて不都合なんじゃないかなぁーと  余談であるが、この映画にも出てきたような、全市民に一意の番号を付けて、政府や銀行や大企業が市民の資産財産はもとより、通信内容から購入物から健康状態まで、あらゆる個人データを握って思いのままに利用するっていう状態は、2016年現在の日本の状態と同じだよね。これ、まるっきり聖書にある“悪魔に支配される期間”そのまま。ということは、もし聖書を信じるなら、今の世界は悪魔に支配されているワケで、彼ら悪魔の支配層は、そのうち神によって永遠に奈落の底に繋がれ、未来永劫、一切の救いも無く苦しみ続けるのであるな(^^;)